昭和55年のアメリカよもやま話(その3)

昭和55年のアメリカよもやま話(その3);
 戦時中のアメリカと日本の違いを知る機会があった。
 留学したRobert Pasnau 研究室の隣に日系二世のJoe Yamamotoの研究室があった。ここの秘書に二世のJune Kondo という女性が居た。彼女はとてもきれいな日本語を話せる人だったので、つい暇を見つけておしゃべりに言っていた(英語が上手になるわけがないね)。Joeの研究のお手伝いをすることになり、LA在住の日系二世の多くの人達と会う機会があった。見聞きした話を書いてみよう。

 真珠湾攻撃の後、アメリカでは日系人は敵国民として砂漠の中に作られた収容所に入れられた。財産もすべて没収され悲劇的な状態となったそうだ。後にこの政策は誤りだとして大統領が謝罪をしている。
 日本では「英語は敵国語」であるとして国は英語の使用を制限した。典型は野球用語である。ストライクは「まっすぐ」、ピッチャーは「捕手」、ファーストは「一塁」などと、日本語に置き換えられた。一方、アメリカでは日本語の出来る日系アメリカ人は重宝された。日本軍の暗号解析や日本に対する投降文書作成、米軍の日本向け日本語放送に狩り出されていた。山本五十六がナダルカナルで待ち伏せに遭い戦死されたのだが、日本軍の暗号はほぼ解読されていたらしい。
 また、収容施設に入れられた日系二世達は、「自分たちはアメリカ国籍を持ち、アメリカで教育を受けたアメリカ人である」と主張し、日系アメリカ人部隊が編成された。442連隊といわれ、彼らはヨーロッパ戦線に参戦し、大活躍をしたことはアメリカでは広く知られている。
 アメリカに移民した日本人一世達は「出稼ぎ」的な考えで渡米した人が多く、子供には将来のために日本の大学の教育を受けさせる人が多かったようだ。戦争が始まり、日本に留学していた日系二世達はアメリカに帰国できず、大学の寮などに軟禁状態になり、食べるものにも苦労したという話を何人かの人から聞いた。アメリカに居た日系人も日本に留学していた日系二世達も共に苦労をした。やはり戦争はしてはいけない。ウクライナ、ガザ・・早く戦争が終わることを祈ろう。
余談ではあるが、アメリカでは「原爆投下の結果として日本は降伏した。戦争を長引かせなくて済んだのは原爆のおかげ」と教育されているようだが、現実は違っている。「早く原爆の効果を試さないと戦争が終わってしまう」という米軍の考えで急遽投下された。「原爆の効果を確かめる実験」だったのである。終戦と同時に広島と長崎に米軍関係者が沢山訪れているが、原爆症の治療のためではなく、原爆が人体に及ぼす結果の情報収集と町の被災状況の確認に来ただけだった。日本は原爆の効果を試す実験場とされたのだ。